近年は『シュタインズゲート』や『ソードアートオンライン』などのハリウッドドラマ化が発表され、「ソニック」や「ピカチュウ」などのゲームキャラクターの実写映画化も増えてきている。
実写ではないが、あのスーパーマリオも『ミニオンズ』のイルミネーション制作でアニメ映画化される予定だ。
「シュタインズゲート」ハリウッド実写化のキャストを予想してみたよ
日本のアニメ・ゲーム作品が映画やドラマとして続々リメイクされる中、その代表的な存在になり損ねてしまったのがハリウッド版『デスノート』である。
海外でも高い評価を受けている漫画を実写化したにも関わらず、日本でも本国アメリカでも酷評されてしまった。
そして先日ふと思い立って問題のハリウッド版『デスノート』を鑑賞した。本作は権利を持っていたワーナーが複数の映画作品とともに本作を手放したため、Netflix配信になったという経緯がある。なので今日でもNetflixに加入してさえいれば、すぐにでも鑑賞できるはずだ。
2017年配信のため、すでに記事ネタとしての期限が切れているのは分かっているが、せっかくなのでレビューとは違った形で記事にしようと考えた。
そこでハリウッド版デスノートはなぜ失敗したのかに焦点を置いて、私の感想を交えながら考察していきたい。
概要
私個人の感想よりも、まずは本作がどれほどの評価を受けているのかを理解してもらいたい。
アメリカの大手レビューサイト「ロッテントマト」を参考に『デスノート』シリーズの評価をまとめてみた。
78%『デスノート』
80%『デスノート the Last name』
とりあえず日本で制作された最初の実写映画から。評価の見方は%の分だけ批評家が高評価を押したということになる。つまり『デスノート』は映画を観た78%の批評家から評価を受けているということだ。60%を超えると「新鮮」な映画となり、下回ると「腐った」映画となる。
つまり『デスノート』の最初に公開された2作品はかなりの評価を受けているのだ。(ただし視聴した批評家が少ないため、評価が変わる可能性はある)
もうひとつ忘れてはならないのが、「デスノート2016」というプロジェクトから始まった『デスノート Light up the NEW world』だ。これは原作には描かれなかった後日談を描いた作品であり、完全オリジナル展開が続く。
この映画に関しては普段は甘々な評価を付けがちな私でも嫌気が差したレベルだった。正直やる必要もなかったと思える。そしてロッテントマトのスコアも40%と前二作とは異なり「腐った」評価となっている。
さて、前置きが長くなったがハリウッド版『デスノート』の評価はどうだろうか。
ロッテントマトでの評価は39%である。僅差ではあるものの、シリーズでは最も低い評価が下された。最も視聴している批評家も前3作に比べて圧倒的に多いのだが。
日本のレビューアプリFilmarksでは5つ星中2.5、映画.comでは5つ星中2.4の評価が付けられている。これは日本のサイトにしては低評価とみて良いのではないだろうか。
このようにネット上ではハリウッド版『デスノート』を酷評する声で溢れている。逆に褒めている文章を見つける方が難しい。
それを踏まえて、以下の「酷評の理由」を読んでいただければ幸いだ。
なぜ酷評されてしまったのか
原作がチラつく
これは日本で大場つぐみ・小畑健両先生による漫画とは大きく異なる。そもそも舞台が日本ではなく、アメリカのシアトル。月も名前は一緒だが人種もキャラクターも違う。
そのことを受け入れられるかが、本作を楽しむ第一歩である。恐らく日本のみならずアメリカのデスノートファンも「ホワイトウォッシュだ!」と怒った人間が少なからずいたのではないだろうか。
ハッキリと言ってしまうと「名前を書いたら死ぬノート」という設定、リューク以外は全くの別物である。その時点で拒否反応を示す人も多くいるはずだ。
さらに言ってしまえば映画としての質は評価を見てわかる通り、かなり低い。それと比べられるのが超名作と言ってもいい漫画『デスノート』なのだから、余計にひどく見えてしまうのは当然である。
どんなアニメ・マンガ実写映画にも言えることかもしれないが、原作と比べてしまうと途端に冷めてしまうことが多い。原作とは完全に割り切って映画に臨むのが適切なのだ。私は無理だったが。
キャラクターの間抜けさ
原作の夜神月は世界的名探偵Lをも打ち負かす知能を持ち、原作では二代目Lに就任。新世界の神として君臨とする天才だった。
日本の映画もこの設定を踏襲し、Lにこそ負けたものの恋人を殺してもぐりこむなど、かなり狡猾なキャラクターである。それに藤原竜也さんの演技も相まって類を見ないキャラクターに仕上がっていた。
対してハリウッド版はどうだろうか。上の項目で書いた通り、本作のライトとデスノートの月は別物である。そのためライトがただの間抜けに映るのだ。
間抜けエピソードを挙げるとすれば、まずデスノートの存在をすぐに意中の人に明かしてしまう。ミア(原作でいうミサに当たる)という女性に明かすのだが、それにはリュークのみならず観客も驚きである。
そしてルールの多さに「このくそったれなルールが!!」と暴言を吐く始末。原作の月ならばルールをきちんと把握し、さらには13日ルールまで付け加えているのだが、本作のライトはもはやルールを読む気すらないようだ。
さらにこの間抜けさは世界一の名探偵Lにも及ぶ。本作のLは冷静さに欠けており、とてもゲームのように事件を解決してきた原作のLとは思えない。
映画の途中にLが銃を持ち出してライトを全力疾走追いかけるという、もはや笑いどころのようなシーンがある。完全に原作とは別物であると象徴しているシーンでもあるのだが、違和感たっぷりのシーンに仕上がってしまっていた。
そもそもハリウッド版Lは若干ではあるが原作を踏襲している。座り方はあの姿勢だし、甘いものを貪り食ったりと中途半端な原作再現があるだけに、上記の走るシーンは可笑しさすら感じてしまうのだ。
これが完全にオリジナル探偵出会ったのならば話は別だったのかもしれないが。ここも含めて原作を読んだことにある人には滑稽に映ってしまうのだろう。
ワタリ問題
本作の最も問題だった部分が、「ワタリ」のキャラクター設定だ。ワタリとはLと警察関係者を繋ぐ人物であり、Lにとって父親のような存在だった。原作ではワタリ自身も登場時には顔を隠しており、名前ももちろん偽名だ。
ハリウッド版に登場するワタリはアジア系俳優が演じているものの、「おヒョイさん」が演じたワタリとは大きく異なっている。がたいも良く、武闘派にすら見えるのだ。
しかし、ビジュアルに関しては前述した理由から大目に見るとしよう。何度も書くが、これは新しいデスノートであり、新解釈の基で作られた作品なのだ。
ただ「ワタリ」というコードネームが本名であったことは看過できない。何を言っているのか分からないと思うが、ワタリの名前がノートに書かれるシーンを解説すると、
まずライトはLの名前をノートに書きたい。
しかし原作同様本名は分からないので、代わりにワタリの名前をノートに書き「Lの名前をどうしても教えなければならない」と死の行動を操り、Lの名前を探ろうとするのだ。
これだけでも非常にまぬけな行動だが、ノートに書いた名前が「ワタリ」の3文字だったことが問題である。私はこのシーンを観た時、椅子から転げ落ちるだけでなく、そのまま異世界転生しそうになった。
間一髪のところで転生は食い止めたが、映画全体の間抜けさを象徴しているようなシーンと捉えてしまった。
そもそも「ワタリ」が本名だと誰が思うだろうか。日本人だとしても「渡○○」となるはずである。「ワタリ」が本名で通じる世界線ならば、「L」が本名であっても何ら不思議ではない。
日本人キャラクターならば映画製作前に「ワタリ」では不自然だと気がつかなかったのだろうか。アメリカで例えると「マクラビン」のみの名前と同じくらい不自然だ。
もう一つ言えば、天才のLが使用人に対して本名で活動させるだろうか。答えは否である。ワタリ自身も名前と顔が必要だと分かった以上、自分の本名には気を遣うはずだ。
この「ワタリ問題」はLの間抜けさ、そして製作陣の不勉強さが露呈したデスノート史を覆す大問題であった。
唐突に出現するゴア描写
原作『デスノート』はブラックなネタを扱ってはいるものの、少年誌で連載されていた作品である。グロテスクな部部と言えば心臓を抑えて死んでいく人々くらいだろうか。
日本の映画でも次々に心臓麻痺で死んでいく人にショックを受けた方はいるだろうが、ゴア表現はほとんどなかったと言ってもいい。
しかしハリウッド版ではゴア表現がふんだんに使わている。まず最初の被害者に対してライトが「頭部切断」という今まで観たこともなかった死因を書く。
もちろん被害者は頭部が吹っ飛ばされて死んでしまう。ハリウッドお得意のスプラッター的作品になってしまうのだ。
最初の死因に「頭部切断」などとサイコパス極まりない死因を書いたせいで、ライトへの感情移入は不可能になるが、その後もグロテスクな死因が続く。
私の経験からして日本人はアメリカ人以上にグロテスクな表現に慣れていない(諸説あるが)。ゲームでも日本で発売されるものは例えR指定でも規制されている。
そして本作の上映形態はNetflix配信だ。ゴア表現があるなど考えもせず、『デスノート』という名前だけで観た人も相当するいるだろう。
私自身は映画を日常的に観ているだけあって、グロテスクな表現にも慣れてはいるが、『デスノート』を見てショックを受けた人は相当数いたと予想する。これが日本での低評価に繋がっているかもしれないからだ。
最後に
ここまで散々ハリウッド版『デスノート』を叩いてきたが、12巻ある濃密な作品を2時間の枠に収めるのがそもそも難しい。日本版は前後作で原作の前半部分しか実写化しなった。
そう考えるとドラマ化ならまだしも、実写映画に収めるのが無理な話だ。正直言ってどんな作品を作ってこようが、満足いった作品になるとは思えない。
これは同じくハリウッドで実写化された『ドラゴンボール』にも言えることだ。何が起ころうと100%受け入れる作品は作れなかっただろう。
それだけ「売れた原作」の「他国での映画化」は難しいのだ。