学生時代の自分は“ぼっち”だっただろうか?
思い返してみると、確かに友達は少なかったし、頭の悪さ以外で特別目立つような生徒でもなかった。当時は「学校なんてつまんねーぜ」って思ってたけど、今にして思えば、結構楽しい生活送ってたのではないだろうか。
ただ、これは高校までの話。大学時代は自他ともに認める“ぼっち”であった。
授業に参加しても友達はおらず、ノートを見せてもらうことも一苦労。付属だったが、高校時代の友達は全員大学で友達を作り、僕は“ぼっち”になった。そして、この“ぼっち”は今にいたるまで続いている。
というわけで、現在進行形“ぼっち”の僕からすれば、『ぼっち・ざ・ろっく』なんて愚の骨頂。
結束力の強い“バンド”と、何人も寄せ付けない“ぼっち”は正反対の存在だからである!
ぼっち・ざ・ろっく!
第1話について
そんな気持ちを抱いて鑑賞した第1話。
めちゃくちゃ刺さった。
ぼっちちゃんは想像以上に“ぼっち”だったし、コミュ障らしく目を合わせず、会話もままならない。ギターヒーローの実力をきっちり描いてくれるかと思いきや、ぼっちちゃんは音楽の上でもコミュ障だった。
自分から行動に移すことはなく、常に他人の“パス”を待っている描写は特に刺さる。僕も今いる友達は全員、“話しかけられて”から関係が始まったなぁ……。
頭では分かっているんだ。自分からアクションを起こさなきゃいけないって。
理解はしてるんだ。僕なんて大した存在じゃないし、初トークが失敗しても、相手はなにも思ってないって。
けど、怖い。アクションを起こして失敗するくらいなら、このままひとりでいたい。マイナスになるくらいならゼロでいい。
だから、僕は友達が少ない。
第3話について
そして第2話。バイト編。
目を合わすことができず、ネットで拡散されるぼっちちゃん。SNSではネタ動画的な扱いを受けていて、笑った人が多いようだが、僕からすると笑うことなどできない。実際、僕も初めて接客したときは、あんな感じだったからである。
接客とは別に、とある飲食店の厨房で働き始めたとき、先輩から「お前、言葉の最初に“え、”っていうなよ」と注意された。
僕は人と話すとき、「え、あ、そ、」くらい助走をつけなきゃ話せない。もちろん、目も合わすことはできない。スターリーは“ぼっち”にやさしい職場だが、現実はそうもいかないのだ。
この時点で今期のアニメNO.1は決定したも同然だった。“ぼっち”に刺さりすぎるのだ。
『ぼっち・ざ・ろっく』の凄いところは、思い当たるところしかないのに、面白い点である。しっかりとエンターテインメントしていて、なおかつ共感性羞恥心が湧いてこない程度にリアルな“ぼっち”を描く。このスタイルを崩さないのが、とにかく面白い。
きららアニメなら『けいおん!』くらい、「ぴゅあぴゅあでふわふわな青春」を描いてもいいのだが、しっかり現実の“ぼっち”を取り入れたキャラクターを主人公にすることで、“共感”を呼ぶ作品に仕上がっているのだ。
第5話について
誰もが神アニメを確信したであろう第5話。
「ギターと孤独と蒼い惑星」は、アニメ史に残る神曲である。キャッチーな曲調はもちろんだが、ぼっちちゃんが書いた(設定だが)歌詞も、作品の内容としっかりリンクしている。澪が「ふわふわ時間」を、唯が「ごはんはおかず」を書いたくらい、キャラとシンクロする歌詞だ。
馬鹿なわたしは歌うだけ
ぶちまけちゃおうか 星に
ぼっちちゃんはバンドがやりたくてどうしようもなくて、けれども、自分からアクションを起こせない。ギターを始めてから3年間、溜まっていた欲望を歌詞にぶつけているような、そんな楽曲である。
サビの「ぶちまけちゃおうか 星に」は、かっこいい歌詞だが、ここの「星」は恐らく地球のこと。「夜空を見上げて……」的なことではなく、あくまでも我々の足元にある地球に向かってぶちまける。いかにも、押し入れでギターを弾き続けた、ぼっちちゃんらしい歌詞だ。
このエピソードでは、バンドの演奏シーンにも注目したい。キャラクターのアニメーションはもちろんだが、細かいカットを繋ぎ、ぼっちちゃんのモノローグを重ねて見せる演出には度肝を抜かれる。『ハルヒ』や『けいおん!』のときにはない、現代的な演奏シーンに仕上がっているのだ。
特にサビに入る直前、ぼっちちゃん覚醒前の演出は見逃せない。Bメロの滑らかな曲調とぼっちちゃんのモノローグが重なり、喜多ちゃんのカット→ぼっちちゃんの足カット→覚醒ぼっちちゃんへと繋がっていく一連の流れが完璧すぎる。
しかも、曲とリンクしていて、「世界の音が~」でボーカルである喜多ちゃんのカット、「しない!」でぼっちちゃんの足カット、「足りない足りない」で覚醒ぼっちちゃん。わずか2~3秒の時間だが、変態的(褒めてる)なこだわりである。このMV並みに抜群のアゲ感ある演出が、アニメの1エピソードで味わえる時代になるとは……!
終盤ではGopro視点でぼっちちゃんを映すカットがあったり、スプリットスクリーンで4人を映したりと、魅力的な演出の数々。ライヴシーンに関しては、『けいおん!』からの進化を強く感じた。
そして、ぼっちちゃんのモノローグも、よくよく聞くと「ん?」という部分があったりする。「チヤホヤされたい」だったり、「“こんな”オーディション“なんか”」だったり……。かっこいいことを言っているように見えて、若干ツッコミどころがある。そして最後にはちゃんとゲロを吐く。そのギャップも魅力だったりするんだけど……。
第8話について
飛んで第8話。
ぼっちちゃん役の青山さんも「作品の中で1話だけを選ぶなら、8話を見てほしい」と語っていたが、褒めまくった5話を超える神回であった。
まだ放送されて間もないので、「あのバンド」のライヴシーンに関しては意見をまとめたいが、まずは失敗してしまった「ギターと孤独と蒼い惑星」のシーンについて語りたい。
正直、僕は音楽に関しては素人である。だが、第8話の「ギターと孤独と蒼い惑星」の演奏が失敗だったことは理解できた。バンドのリズムが合っていないし、メンバーの呼吸が乱れている。そして、彼女たちがステージの上で緊張し、動きが硬くなっていることがわかる。おそらく、目をつむっていても、そのすべてが理解できただろう。
それくらい“音”の部分でリアリティーを感じる。音楽に精通している人によっては「やりすぎ」なくらいなのかもしれないが、僕をはじめ大多数の素人にはこれくらい誇張して表現してくれなきゃ分からなかったと思う。
しかし、ファーストライブを成功させ、居酒屋で打ち上げまでしてしまうぼっちちゃんは、もはや“ぼっち”ではないのではないか。
バンドやって、ファンができて、周囲から褒められて……。
それって文字どおり“青春”じゃん!
コンプレックスはどうしたんだよ!!
そんなことを思う、視聴者もいただろう。僕もひねくれ者の一員として、揚げ足を取りたくなった。
その瞬間に流れるのが、虹夏ちゃんが歌う「なにが悪い」である。「鳴り止まなくてなにが悪い 青春でなにが悪い」から始まるこの曲は、我ら真の“ぼっち”にカウンターパンチを食らわせた。
ここで、第8話のタイトルが「ぼっち・ざ・ろっく」だったことについて考えてみよう。これまでのストーリーは、文字どおり“ぼっち”のロックを描いてきた。コミュ障ながらも、なんとかロックに噛り付いた、いわば受け身なロックである。
ところが、第8話で虹夏ちゃんが「ぼっち・ざ・ろっく」と発した瞬間、その意味が変わった。ここからは、広義な意味での“ぼっち”ではなく、後藤ひとり(ぼっち)のロックに変化する。そして、このアニメのタイトルが持つ、真の意味も知ることになる。
本記事の冒頭、僕は「現在進行形“ぼっち”の僕からすれば、『ぼっち・ざ・ろっく』なんて愚の骨頂!」と書いたが、愚かなのは僕の方だった。
このアニメは「“ぼっち”のロック」というよりも、「後藤ひとりのロック」を描いた作品だったのだ。その事実に気がついたからこそ、「青春でなにが悪い!」が心に響くのだ。
最後に
第1話を鑑賞した時点で、原作にも手を出した。
原作のテンポも好きだし、「きらら」らしからぬ主人公の顔芸も秀逸だ。文化祭がとてつもなく楽しみである。
ぼっち代表としては、愛すべきぼっちである後藤ひとりを応援せずにはいられない。
こんなに長々と書いて、結局何が言いたいかというと、
『ぼっち・ざ・ろっく!』が、
おもしろいっ!!